※この記事は、Circular Yokohama「リビングラボを通じた地域循環経済をどう実現する? 横浜市・政策局に聞く【対談連載・第1回】」を転載したものです。
2021年12月、横浜市は、市内のリビングラボ活動を支援する4者、一般社団法人YOKOHAMAリビングラボサポートオフィス、ヨコハマ経済新聞や「LOCAL GOOD YOKOHAMA」などを運営するNPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボ、「Circular Yokohama」を運営するハーチ株式会社にて「リビングラボを通じた循環型経済(サーキュラーエコノミー)を推進するための協定」を締結しました。
横浜市が掲げる独自のビジョン「サーキュラーエコノミーplus」の概念に基づいた具体的な活動が、横浜リビングラボを中心に市内各地で加速するなか、現在の横浜にはどのような環境・社会・経済をめぐる課題があるのでしょうか。また、横浜市内で展開されているリビングラボ活動はそれらの課題を解決し、地域の循環経済を実現していくうえでどのような可能性を持っているのでしょうか。
2020年にお届けした特別対談「『サーキュラーエコノミーplus』が描く、持続可能な都市の未来」につづき、再び横浜市政策局 共創推進課 関口昌幸(せきぐち・よしゆき)さんとCircular Yokohama編集部 加藤佑(かとう・ゆう)による対談を実施し、より地域の現状に即したお話を伺いました。これから全4回に分けて連載形式で対談の全容をお届けします。「社会」の側面から横浜市が抱える課題について掘り下げた、第一弾「社会編」に続き、今回は第2弾「環境編」をお届けします。
連載内容
- 第1回:地域の課題を考える・社会編「高齢化と単身世帯化が加速するつながりの希薄化」(2022年7月4日掲載)
- 第2回:地域の課題を考える・環境編「気候変動と災害対策」
- 第3回:地域の課題を考える・経済編「生活サービス産業への移行とコロナの打撃」
- 第4回:解決策を考える「横浜は、幸せに暮らせるまちか?」
第2回:地域の課題を考える・環境編「気候変動と災害対策」
なぜ横浜が、気候変動対策に取り組むのか?
加藤:それでは、「環境」の側面に注目してお話を伺いたいと思います。環境というと、喫緊の課題として「気候変動」が挙げられると思いますが、その現状はいかがでしょうか。
関口氏:気候変動の影響は、まさに深刻です。直近10年だけをみても、震災のみならず、地球温暖化による台風の大型化などによって、災害が頻発し、被害も甚大化していることがわかるからです。
その上、グローバル化によって、今後新型コロナウイルス感染症のような世界的なパンデミックが恒常的に引き起こされる可能性も否めません。いま直面しているパンデミックが収束すれば全てが解決し、この先ずっと安心ということはありません。温暖化や気候変動が進んでいけば、いつまた別のウイルスが現れるか、感染症として蔓延するかはわかりませんし、一度パンデミックが発生すれば、再び社会や経済のシステムが打撃を受けることになります。この一連のリスクが高まっているのです。
加藤:気候変動が横浜にもたらす影響について考えてみると、海面上昇は我々の脅威になりえるのではないでしょうか。特に横浜は、経済循環における重要拠点が沿岸部にまとまっていますから、例えば100年後、海面上昇によって地域社会が大きな影響を受ける可能性は十分にあります。その被害と対策を、今から想定しておく必要があるのではないでしょうか。
また、食料やエネルギーなどの生活必需品を輸入に頼っている現在の生活も高いリスクを孕んでいます。気候変動によってすでに世界中の農業が影響を受け始めており、世界の人口を賄うための十分なエネルギーや食料の確保は一層難しくなっていくと考えられます。食やエネルギーを外部に依存している横浜のような都市部では、今後いかにして自給率を上げていけるかが地域の持続可能性を左右します。これらの理由からも、横浜が気候変動対策に取り組むことは非常に重要ですね。
避けては通れない風水害対策。歴史に学ぶ、海面上昇
関口氏:歴史を見てみると、その危機感はより高まります。およそ6000年前、縄文前期に起こった縄文海進では、今よりも平均気温は2度高く、海面も2〜5メートルほど高い位置にありました。この縄文前期をピークにして、地球が長期的に寒冷トレンドに入ったことで、関東平野から少しづつ海が後退し、大地が乾き始め、陸が増えて行くのですが、それでも近世に至るまでの坂東の地は、まだまだ沖積平野を形成するには至っておらず、近世までの坂東の人たちは、内海と大小の河川、湖沼の中に浮かぶ巨大な三角州の上で、暮らしていたわけです。
その証拠に、関東平野の東部に位置する利根川下流域の低湿地帯(いわゆる「ちばらぎ」と呼ばれる下総・常陸エリア)には、少なくとも1000年前では、現在の霞ヶ浦・北浦・印旛沼・手賀沼をひと続きにした広大な内海が存在していたと言われています。この内海は鹿島灘に湾口を開き、香取神宮を扇の要として湾域が東西に広がっていたことから「香取の海」と呼ばれていたそうです。「香取の海」には、鬼怒川を始め大小の河川が流れ込み、湾域の総面積は東京湾に匹敵したというから驚きです。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、大雨の影響で河川が氾濫し、頼朝の挙兵に三浦勢が間に合わないという場面が描かれていましたが、大型台風などが上陸すれば、彼らの生活の場は、あっと言う間に水没してしまったはずです。例えば、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には「建仁元年(1201年)8月の暴風雨で、下総葛飾郡の海溢れて4000人余が漂没」という記述があります。果たして、4000人という数字が正確かどうかは、不明ですが、きっとこのクラスの自然災害がかなりの頻度で起こっていたのが、中世の関東平野だったと思われます。
加藤:江戸時代は、どうだったのですか?徳川幕府は河川の改修や湖沼や内湾の干拓に熱心だったと歴史で習った気がしますが。
関口氏:江戸時代の為政者にとって、武蔵国や相模国、下総国、すなわち関東平野における内海や湖沼の干拓や利根川のような主要河川の治水管理は、台風などによる自然災害から民の命を守ると共に、食料を増産し、産業を振興するための至上命題でした。
例えば、国土交通省のHPには以下のような記述があります。
『天正8年(1590年)、徳川家康が江戸城に入ったとき、当時の利根川は、関東平野を乱入しながら南下し、荒川や入間川と合流して、下流では浅草川、隅田川と呼ばれて東京湾に注いでいました。「このままではお江戸が洪水におそわれる!」と先見の明のあった家康は、水路や支派川、堤防などを築いて流れを東に移し、銚子で海に注ぐように大規模な河川改修を行いました。これを「利根川の東遷」と呼び、この結果、香取の海は土砂の堆積が急速に進んで陸となり、現在のような穀倉地帯が形成されていったのです。』(国土交通省利根川下流河川事務所HPより)
加藤:徳川家康は、利根川の改修まで行っているのですね。
関口氏:ただ、そうは言っても、江戸中期以降、「香取の海」が急速に陸となり「ちばらぎ」が穀倉地帯になったのは、利根川の東進事業による効果だけではありません。例えば天明5年(1785年)から老中・田沼意次によって計画・実施された「印旛沼・手賀沼干拓」など、江戸幕府がその滅亡まで一貫して、巨大なウエットランドである坂東の地に対して、水害対策と殖産興業を総合的に展開するという開発政策を続けてきたからに他なりません。アジアモンスーン気候の中で、自然(水)の恵みと脅威を知り尽くし、河川治水と農業振興の知恵と技をトータルに磨き続けたのが、この武蔵国に約260年にも亘って首都を置き続けた徳川幕府だったわけです。
加藤:まさに近世のSDGsですね。
関口氏:明治維新以降も国(政府)による治水対策は江戸幕府を引継ぐ形で続けられるわけですが、オランダなど西洋から技術者が招かれ近代的な河川改修が行われるようになったこと。そして、明治29年に河川法が制定され、利根川のように氾濫した場合に大規模な被害が予測される河川については、国(内務省)が河川改修などの治水事業を行うことが位置付けられました。
加藤:治水についても近代化が図られたわけですね。
関口氏:明治、大正、昭和の前半にかけて、近代的技術による公共事業として堤防強化などが繰り返し実施される中で、浸水被害も江戸時代と比べて大幅に減るようになったのです。ところがその後、日本は太平洋戦争に突入し、度重なる空襲で、国土は焼け野原になりました。
国破れて山河あり、と言いますが、戦争によって私たち日本人がこれまで山野川海を治めるために整備し続けてきたインフラも灰塵に帰しました。それでも焼け跡から立ち上がって、もう一度この国を建て直そうと国民みんなで頑張っていた最中に襲ってきたのが「伊勢湾台風」なのです。
加藤:伊勢湾台風は、1959年(昭和34年)9月に紀伊半島に上陸した台風ですね。日本列島に甚大な被害をもたらした台風だと聞いています。
関口氏:そうです。この台風によって、どれだけの多くの方が亡くなったかご存じですか。
死者・行方不明者含めて5,098人(死者4,697人、行方不明者401人)です。この伊勢湾台風は、風水害における近代日本史上最悪の惨事と言われていますが、これは、吾妻鏡の「下総葛飾郡の海溢れて4000人漂没」と変わらない惨状ですよね。時計の針が鎌倉時代に戻ったようです。この伊勢湾台風から引き出される教訓は、私たちがこの地球上でも類まれな「災害列島」に暮らしているということです。大規模自然災害に備えて、どんなに国土を強靭化し続けたとして、戦争のような人災と地震・台風のような天災が重なってしまうと、脆くも崩れ去り、多くの人命が失われてしまいます。
加藤:気候変動が重なると、そうした災害のリスクも、ますます高くなっていくということですね。
関口氏:かつて温暖化による海面上昇などによって「ツバル」という太平洋に浮かぶ小さな島国(群島)が水没の危機にあるという事が話題になりましたが、日本列島に暮らす私たちも全く他人事ではないということを知るべきだと思います。
加藤:特に横浜は東京湾に面していて、地震だけでなく、風水害の影響を受けやすいですよね。
横浜と風水害のこれまで
関口氏:それで、そろそろ横浜の話に移りたいと思うのですが、横浜の自然災害と防災・減災の歴史について考える際に、まず参考になるのが1976年9月に発行された調査季報51号「特集:都市の中の川」です。その中で雨宮紋一という当時の総務局災害対策室長が「水害と住民」と題して8ページにも及ぶ長文の論稿を執筆しています。この内容がとても興味深いのです。
加藤:少し、ご紹介頂けますか。
関口:この雨宮先輩の論稿、まず冒頭から横浜の水害の特徴について、端的に語ります。『水害といえば、集中豪雨で河川が氾濫し家屋浸水というのが一般的である。しかし降雨だけが水害をもたらしているのではなく、例えば横浜では、降雨によらない水害として地域的、季節的に見られる高潮による浸水騒ぎがある。』(調査季報51号「水害と住民」)と。
降雨によらない、地域的、季節的に見られる高潮による浸水騒ぎ。これについては、私と同世代の西区平沼地区住民ならば、すぐにピンと来るはずです。かつて「高潮」は幕末開港以来、海抜0メートルのデルタ地帯に、その中心市街地を形成してきたのが横浜ですから、我々にとって避けることのできない宿命的な災害でした。
加藤:宿命的災害というのは、なんでしょうか。
関口氏:高潮は、台風のような巨大な低気圧の接近と共に海面が吸い上げられ、上昇することによって起こります。それが丁度、大潮の満潮時にあたったりすると、甚大な被害を被る可能性があります。私が子ども頃、帷子川河口域にある横浜駅西口周辺地区は、毎年のようにこの高潮による浸水被害に遭いました。台風が来ると、帷子川の泥水が、あっという間に低い石積みの堤防を乗り越えて、私たちの住む街を襲い、水浸しにするわけです。床下ならまだしも、不幸にして床上浸水になったりすると、畳やタンス、ちゃぶ台などの家財道具にヘドロが染みつき、翌日、いくら日に干しても匂いがとれないのです。
加藤:かつての横浜では、そういう災害が日常的に起こっていたわけですね。
関口氏:私の実家は、まさにこの帷子川の河口のほとりにあったので、幼い頃の私は、台風が来るたびに、ゆっくりと時間をかけながら水位を上げていく帷子川の川面を実家の2階からハラハラしながら見守ることを習慣としていました。というわけで、この調査季報の論稿が書かれた頃まで、私を始め、帷子川の下流域に住むものたちにとって、たとえ地域的かつ季節的な災害であったにせよ、帷子川の高潮対策は、横浜市行政に対して、「何とかしろや」と要望したい最重要事項の一つだったわけです。
加藤:一口に風水害と言っても地域によってその被害や対策のありようは様々ですよね。
関口氏:そうなんです。雨宮氏は、冒頭で、このような横浜ならではの水害のありようにさらっと触れたうえで、一般的な水害を以下のように定義します。
『まず水害の実態であるが、これを台風や集中豪雨等の年表から拾ってみると、家屋への浸水が即水害といったとらえ方ではなく、例えば集中豪雨によってがけ崩れが起り、その土砂の流出によって家屋が倒壊したといった場合、これも水害として集計されているが、このような被害項目を拾いあげてみると、水害とは実は次のような様相をもっていることがわかる。
氾濫した河川での溺死者、洪水による橋梁の落下・流失、洪水による家屋の流失・損壊
堤防の決潰、河川護岸の崩壊、道路への冠水、道路の陥没・欠壊・亀裂、路肩の崩壊
田畑の流失・冠水、家屋への浸水、浸水による鉄道軌道の損壊、家屋倒壊による死傷者
がけ崩れ、がけ崩れによる死傷者、がけ崩れによる家屋倒壊、よう壁倒壊。
これらはいずれも一次的な、直接的な水害の形として報告されている。従って二次的にはこれらの災害の形態から当然推定されるように、例えば道路障害からくる通行不能は交通機能障害を起し、ひいては一時的にせよ社会機能上のマヒを呼ぶ。広範囲の浸水地域の防疫上の配慮も二次的なものとして考えられるが、このような二次的災害を一次的な水害のいろいろな被害項目の組合せで考えると、その地域の住民に与える影響は極めて大きいことがわかる。』(調査季報51号「水害と住民」)
加藤:1976年に書かれた文章ですよね。当時の横浜市の職員の方が書かれた詳細かつリアルな水害の定義によって、当時の市民の暮らしにとって風水害がいかに身近な脅威だったのかが分かりますね。
関口氏:このように水害を定義したうえで、雨宮先輩は、この調査季報が発行された前年、すなわち1975年の台風・集中豪雨による水害による横浜市内の被害状況について、以下のように述べます。
『まず(この年の)台風・集中豪雨であるが、発生月日順にあげると、二つ玉低気圧による大雨(3/20)、雷雨(6/10)、梅雨前線による降雨(6/26)、梅雨前線による大雨(7/4)、台風六号の影響による高潮(8/23)、 異常潮位(9/10)、秋雨前線による大雨(9/23)、台風十三号による大雨(10/5)、二つ玉低気圧による大雨(10/8)、 日本海低気圧による大雨(11/7)、十回のうち降雨によるものが八回、高潮によるものが二回となっている。それによって生じた被害状況は、死者(がけ崩れによる生き埋め)1名、家屋半壊1棟、家屋一部壊28棟、床上浸水249棟、床下浸水1,987棟、がけ崩れ28ヵ所。災害にあった方にはお気の毒でしたが、十回の災害の被害総件数としては意外に少ない。』(同書)
加藤:当時としては少なかったかもしれませんが、今から振り返ると大変な被害ですよね。1970年代後半でも、横浜ではこういう自然災害が日常的に起こっていたんですね。
関口氏:雨宮先輩が、なぜ意外に少ないと感じるのかの根拠として、彼は、1966年6月に横浜を襲った台風4号の被害状況を挙げます。
『台風4号の場合は、(市内で)死者32名、負傷者50名、家屋全壊110棟、家屋半壊140棟、床上浸水9,835棟、床下浸水35,922棟、がけ崩れ850ヵ所。たった一回でもこんな恐しさをもっている。去年の十回分の被害の方がはるかに小さい。』(同書)
確かに惨憺たる被害です。実は、この台風4号。その来襲直後にビートルズが来日したことによって、通称「ビートルズ台風」とも呼ばれ、検索するとその詳細を知ることができます。台風4号は、1966年年6月23日12時に、日本のはるか南海上の北緯20度30分,東経136度20分で発生しました。その後ゆっくりと北上しながら、北緯20度線を越える頃から急速に発達し、一時は、最大風速25メートル以上の暴風半径が400キロメートルと、猛烈で超大型台風にまで成長します。しかしに東日本沿岸に近づくにつれ衰えはじめ、結局、上陸することなく、房総半島の南東海上を通って、北海道の東海上に達し、温帯低気圧となりました。
ところが、この台風は、衰えながら接近し、しかも上陸しなかったこともあって、風による被害は少なかったのですが、時節柄、梅雨前線を刺激し、静岡県から関東地方、東北地方南部では200ミリ以上、伊豆半島や神奈川県の北部の山岳地帯では400ミリ以上の大雨を降らせます。このため、神奈川県を中心に、首都圏全域で中小河川の氾濫や造成地でのガケ崩れが多発し、横浜においても以上のような甚大な被害がもたらされたわけですね。
関口氏:この調査季報51号に掲載された当時の総務局災害対策室長の論文の趣旨を要約すると、
『横浜市は10年前に起こった台風4号による災禍を教訓として、丘と崖と複数の短い河川の流域によって形成される横浜ならではのランドスケープを踏まえた水害対策に鋭意取り組んできた。その成果は徐々に現れつつある。しかし気を緩めるつもりは毛頭ない。その証として、未来の横浜に向けた災害対策のマスタープランとして「地域防災計画」をまとめた。この計画では伊勢湾台風級の災害に対応できることを目標に、風水害に強くなる街づくりのための災害予防計画を掲げ、実際に災害が起きた場合の被災者に即応するための災害応急対策をあげ、爾後復旧対策をあげている。このマスタープランに基づいて、横浜市は更なる風水害対策に誠心誠意取り組んでいく。なので、市民の皆さん、安心してください。』
ということになります。
加藤:横浜では、1966年の台風4号を契機に、災害対策が進んだんですね。
関口氏:横浜市役所の先輩方の凄いところは、こういうマスタープランを策定するだけでなく、着実に実行していくところです。実際にその後、横浜市は国や県とも連携し、洪水・帯水対策として、大規模な河川改修や迅速な下水道の整備、下水処理場・排水ポンプ場の高度化に取り組むと共に、丘陵住宅地エリアでは、法令や行政指導によって、宅地開発と併せた総合的な崖崩れ対策を実施、また個々の土地の形状によって異なる急傾斜地の崩落をきめ細やかな擁壁工事を施工することによって防いでいきます。
かつて帷子川河口域の住民を悩ませた高潮による浸水にしても、護岸のかさ上げや強靭化、そして帷子川分水路の整備によって、90年代の後半ぐらいまでには、「どんな台風が来ようともへっちゃらさ」と思えるまでになったわけです。
横浜の風水害対策。いま、何が変わろうとしているのか。
加藤:このように振り返ってみると、1970年代から90年代までの横浜市は、災害から市民の命と暮らしを守るためのインフラ整備、都市の強靭化に膨大な予算とエネルギーを注ぎ込んできたことが分かります。
関口氏:そこに市民の切実なニーズがあったわけですから自治体として当然の判断ですね。もっとも80年代後半ぐらいからは、河川改修の領域では、治水よりも親水が重視されるようになり、小川アメニティだとか親水緑道とかといった路線になっていくのですが、それはご愛敬といったところなのでしょうかね。
加藤:ところが、地球温暖化が進むと、近海の海水温上昇によって日本列島を襲う台風が大型化し、これまで数十年に一度だった大規模な風水害が数年間隔で、場合によっては毎年起こるような事態も予想されます。このような変化に横浜市が進めて来た防災・減災のためのインフラ整備が対応できるか、どうかが問われることになりそうです。
関口氏:そのわかりやすくも恐ろしい例が、2019年10月に日本列島を直撃した台風19号ハキビスです。暴風半径が600キロメートールと1966年の台風4号を遥かに凌ぐ大型の台風でした。それだけでなく、その強い勢力を維持したまま、12日の午後7時前に伊豆半島に上陸し、翌13日にかけて、東日本を縦断しました。周知の通り山間部を中心に各地で記録的な大雨を降らせ、東北から関東甲信わたる広い範囲で河川の氾濫や、土砂災害が引き起こしました。
神奈川では、箱根町での1日の降水量が922.5ミリに達して国内最高記録を更新。多摩川が氾濫し、川崎市と相模原市では亡くなられた方が出ています。横浜でもこの台風の上陸前から長時間に亘って大量の雨が降り続け、上陸時には最大瞬間風速40メートルを超える記録的な暴風が吹き荒れました。
仮にビートルズ台風が横浜を襲った1960年代中ごろの脆弱な都市インフラのままであったら、今回のハキビスによって、市内各地にどれだけ甚大な被害がもたらされただろうかと考えると背筋が寒くなる思いです。同時に鶴見川、帷子川、大岡川、柏尾川、侍従川、宮川等の市内河川のハキビス襲来時の状況などを考えると、本当にギリギリのところで耐えきったといったところではないでしょうか。
加藤:そうである以上、横浜市でも20世紀後半の地域防災マスタープランを抜本的に見直し、再構築していくタイミングに来ているということですね。
関口氏:温暖化による気候変動という環境面だけでなく、横浜の社会・経済構造もまた、当時とは、大きく変わっていますからね。
例えば、私が子どもの頃、平沼地区では、大きな台風が来るたびに、隣近所がみんなで声を掛け合い、助け合いました。例えば、帷子川が高潮で溢れ、あたり一面がヘドロの海になった時などは、うちの父親は、当たり前のようにパンツ一丁になり、腰まで水につかって、隣に住む一人暮らしのおばあさんを助けに行きました。水が引いたあとの復旧も地域みんなが協力するから早いわけです。それは、当時の平沼地区の住民がまだまだ年齢構成的に若かったことと、3世代同居を基本として、それぞれの家族が生業を軸に地域で緊密に結びついていたことがあったから、可能だったのかもしれません。
ところが、第1回「社会編」で述べたように、現在の横浜市は、人口構造の高齢化が急速に進みつつあるだけでなく、家族が縮小し、単身世帯が大部分になりつつあります。高齢者だけでなく、未婚・晩婚化が進むことで、30歳代~50歳代の世代の中にも単身世帯が急増しています。こういう状況の中で、地域みんなで、いざという時には、助け合いましょうといっても、なかなか現実的ではないわけです。
だからこそ、住民だけでなく企業や事業者、専門家が行政と共に対話を重ね、この時代に相応しい新しい地域の防災・減災のあり方について、公民連携で具体的な形にしていくことが求められるのだと思います。
編集後記
──日本における海面上昇は、実は今に始まったことではない。
風水害は古くから私たちの暮らしに深く結びついており、社会は、災害と復興を繰り返しながら発展してきました。
とは言うものの、昨今の気候危機は刻一刻とその深刻さを極めてます。2021年、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)は地球温暖化に関する報告書を公表し、そのなかで、地球温暖化の原因は人間の活動にあることを認めています。つまり、近年その頻度と被害を増している風水害は、決してただの自然現象ではなく、私たちの生活がもたらす人為的な現象であるということです。
私たち人間の活動が原因ならば、その予防や対策も私たちが行動を変えることによって可能になるはず。今回の対談は、一人ひとりの日々の小さな心掛けがいかに大きな力を秘めているか、深く考えさせられる時間となりました。
第3弾では、横浜市が抱える課題を「経済」の視点から考察します。横浜の特徴でもある都市型の生活サービス産業の発展と、コロナ禍が地域にもたらす影響についての議論をお届けします。
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